益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察と思いのままに気のままに

倫理、義理人情、信じるの内側にあるもの。

表題を読んで、やばそうな話なのは分かると思いますが、あえて確認します。信仰や信条はその人本人のものです。外からどう見えているかは、関係ありません。

 

言葉ができる時。頭の中で言葉を発見し、発語される。そして、その言葉はだれかに届き意思の交換が可能になる。この多くの人が行っている当たり前のことが、なぜ可能なのか?日本人である私なら、日本語を発音して(書いて)いるから可能なのではないと思う。言葉は身体性、精神性、意思性、主観性、客観性(一般、普遍的にとらえようとする姿勢)など、非常に多くの性質をもっている。そして、これらの性質を言葉を通して意思伝達するためには知識、感覚、情念、体感、達観など、これまた非常に多くの「知」が必要になる。

一番身近な人から聞く言葉から、雑踏の雑音の中に潜むかすかな言葉まで、人が直接聞く、感覚的な言葉は発音を聞くたびに直接、意味と感情に変換され蓄積される。この蓄積を拡張し、さらに認知空間を広げるのが物語だと思う。

物語には、ル・グィンが「ファンタジーと言葉」‐現実にそこにはないもの‐の章で書いているように、言葉ではない「人間」を、言葉によって語る力がある。そして、この力を悪用すれば恐ろしい現実世界を作ることもできる。表現者は常にこの行為に加担している。

信じているものは一度認知されているので言葉になる。しかし、その内側に言葉にならない何かが確かにある。「神」を言葉にしても全く説明にならない。「愛」「精神」「命」「科学」「意識」「死」言葉にならない、「留め置かれた言葉」を説明するには物語が必要になる。一つの「死」を説明するためには「東京物語」が必要なのだ。

私は「千と千尋の神隠し」の「ことば」を「思いやり」と発見するまで随分かかったが、その切っ掛けをくれたのは、お盆の時に会った親戚の子の「千尋が何で元気になったのか少しわかった。」という言葉だっだ。言葉には「そこにあるのに言葉ではない、物語である言葉」があるのだ。

「倫理」「義理人情」「空気」といわれる言葉も「留め置かれた言葉」で、この言葉たちは「個」ではなく「家族」「家」「村」などの「人の集まり」の物語として語られる。この言葉は当然「法」にならない。しかし人間の中に間違いなくある。

 

これら、様々な「言葉」を「知る」ためには子ども時代に「人としての共通言語」を習得していなければならない。一番簡単なのは、友達が転んだら、痛かっただろうなと思い「大丈夫?」と発せられる言葉だ。宮崎駿さんや養老先生をはじめ多くの人がこの「人としての共通言語」が都市化と共に失われている事に気づき、様々な活動をなさっているが如何せん、経済合理という生存競争もし烈で、実を結んでいないのが現状だ。

物語は子どもが「人としての共通言語」を「ことば」として発見し、認知世界を広げていくことが出来る。当然おっさんおばさんに成っても物語によって世界を広げることはできるが、この場合は「理屈で考えない」というコツがいる。さらに、普段眠っている感覚を研ぎ澄まさないといけないので、かなり疲れる。

 

と、書いてみました。この文章も内容が内容なので何とも、留め置いておく自信がありませんが努力します。