益次郎の考察部屋

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資本主義の物語

 

  私は資本を人間そのものと不可分な「利用在」と考えています。利用とは知恵と意志。在とは知識と技能と社会性(資本を有する人間との人脈)。そして、利用在を所有することが資本主義だと考えています。在は継承され連続性のある時間軸の中で維持されていきます。利用は在を所有した個人によってもたらされます。在を所有し利用するためには、所有を定めなければなりません。これが人類の歴史です。人は理性によって理を知り、自然物を在を用いて利用することで価値を財として集積した結果としての文明を築いてきました。しかし、所有については常に争ってきました。法の支配という、所有を定める理念が出来て、問題はあるにせよ、法によって所有を治めることで社会は近代の繁栄をえます。法の支配はさらに、その根拠たる理性と論理により、人を所有しているのはその人自身であるという人権の概念を発見します。

 この時、資本との間に齟齬が生じます。資本主義を原理主義的に解釈すると、奴隷の所有を肯定します。なぜなら、意志を奪うと人は資本ではなく在になってしまうからです。また、知恵についても同様です。こちらは排他的な階級制となり、隷属をもたらします。

 

そして、在についてです。こちらが長期の時間軸で維持されていくと、資本の偏りが顕著になります。利用は人間そのものの命と不可分ですが、在は継承可能です。また資本活動の結果生産された財は、資本活動量の大きい人間に蓄積されていきます。

 現代から近未来においては知識はコンピュータネットワークとAI、技能は機械とAIに置き換わり、非常に高度で複雑な知識と技能、そして社会性だけが在になります。社会性は意志を奪われれば失われます。

 

 現代資本主義において人間は、利用という行為から人権によって守られています。しかし、時の流れと共に蓄積される資本により、新たな問題が出てきています。在でも触れたAIです。利用である知恵も、将来的にはAIに置き換わるかもしれません、が今はまだ大丈夫でしょう。あとに残るのは意志です。

 この資本状態は人間との乖離が顕著であり、人間の活動が資本形成に関係なくなってくるのです。その時、その資本はだれが所有しているのか。

 

資本を、生存のための資本活動、欲を満たす資本活動、意志を現す為の資本活動と分けた時、それぞれ、公共性、価値創造性、政治社会性の活動と読み替えることが出来るのではないかと考えます。そして、この三つは重なり合い混ざり合って存在しています。問題は、現在、最も規模の大きい価値創造性の資本活動が人間を必要としない資本活動になりつつあることです。在の項で書いたように、資本活動の結果生産される財は在を利用したものに大きく分配されます。これは当然でその人の意志により利用されなければ在は自然物、ただあるものになってしまうからです。自然状態は資本活動によって破られます。

 人間がその生存、価値創造、社会秩序、等の活動に必要な在を人間の外に創造した結果起こっているのが、現在の人間間不均衡の爆発的な拡大です。産業革命時は技能、活版印刷は知識と、過去にもこれらの変化はあったのですが、過去の事象は「技能をなす、知識を得る」のは人間でした。AIは「なす、得る」を行い、人間の活動は知識の発見、機械の発明、AIの管理という「人間のほとんど」に縁遠い、よく分からんものになっていきます。

 この不均衡は、政治社会性の資本活動(戦争、革命、内戦、狂乱)によって是正される危険性をはらんでいます。また、知恵と意志を強固にする人間によって、究極的な管理社会、映画「マトリックス」や漫画「風の谷のナウシカ」の墓所のように、管理者が見えない管理社会を構築することも可能かもしれません。ナウシカでは自然の未知性によって、究極の管理社会を否定的にとらえています。私は管理社会という発想自体に自然に対して傲慢な所有的発想の人間性を感じます。とすると、やはり心配になるのは争乱です。こちらも、ドローンや情報戦の真実化技術により、過去とは全く異なる形で進行していく可能性があります。情報を遮断された在が消滅しても、無いものが無くなっただけで、その重大性に気づくことは出来ないのです。

私は、Amazon goのニュースを見た時、なんとも言えない不安を覚えました。amazon goは所有の概念形成に影響を与えるのではないかと考えたのです。人間が所有を忘れることが出来ればいいのですが、この煩悩はなかなか断捨離出来ないと思います。所有の移転を決定する儀式である決済の感覚が、コモンセンスから失われるのではないかと不安になりました。銀行でAIの活用が実装されると、信用審査についても同様にコモンセンス、暗黙知とは関係ない定量的な数理によって行われる事になります。保険料算定の数理は現状の事故率を忠実に再現できればいいのですが、銀行融資に必要な信用査定は、人間の未知性によるところがあります。この時信用をAIに委ねることには、熟議が必要で、良、不良、合理では計れない人間による未知性をどのように扱うかという難し判断が必要になります。なぜ難しいのかといえば、恐らく多くの場合でAIの判断が正しいからです。投資家は勝手に投資すればいいのですが銀行はそうはいきません。また、保険、融資共に社会性バイアスをAIから排除し、かつ信用精度を高めるというきわめて人間的な調整も欠かせません。しかし、人間は信じた暗黙知を疑えないので、この作業自体が困難です。

 

AIは非常に優れた道具で、今まで人間には調整できなかった問題を整理し分かりやすくしてくれます。しかし、AIは人間そのものではなく、その結果は人間に合理を示しているのではないという、確固たる意志のもとに使わなければなりません。合理とは何に対して合理なのかという対象が存在し相対的に決まります。裁判所は法理に照らして合理を判断し、コスパは自らの経済状況に照らして合理を判断します。AIが示す結果はAIが学習したデータに対しての合理なのです。ここを安易に人間にすり替えてしまうと、AIに内包されるバイアスが増幅され、人間の人間性を書き換えていく危険があります。

 

新しい道具が出来たら、使いこなすための新たな知識が必要になります。この新たな知識を、法理、道理、科学、文化と、集積してきたものこそが人類の資本だと思います。(倫理と義理人情は資本の外にあると思います。)

 

人は千差万別、十人十色、今この事を書いてる私も欠陥だらけの人間です。価値創造活動という、人間が欲し続けてきた活動から人間が切り離されて、はたしてその活動を維持し続けることが出来るのでしょうか?現在は少数の人が人間の必要性を最小限にした在を利用し、人類の資本を吸い上げています。価値創造の資本活動から切り離された人間はどこへいくのか?

 

会社はだれのものか?という議論はいろいろなところにあります。ジェフ・ベゾス氏が築き上げた会社は革新的で、まさしく人間が行う価値創造活動の結晶の様です。その結晶はベゾス氏の物なのでしょうか? このままだとアメリカ合衆国の中にベゾス帝国ができそうな勢いです。規模が小さい時は俺の物、大きくなったら取り上げるのか?と法理も道理も通りませんがどうも納得が出来ません。独占禁止法は資本を利用によって独占することを防止しています。

市場によって評価された資本は財となります。この財はいったい誰の物なのでしょう。市場は資本ではなく財の所有を決める機能を果たし、財の移動から資本活動を支えています。さらに、財の移動から会社の統治権にも影響を与えます。

ここで資本と財の間に齟齬が生じます。財は資本活動の結果の果実であって資本ではありません。にもかかわらず、資本活動に決定的な影響を与えるほど膨張してしまいました。アメリカでは最近、「統治権利」と、「財としての権利」を分割する傾向にあるようです。市場の機能とは「財の提供による資本活動の支援」という資本活動と、「資本活動体である会社の価値を知る機能」としての資本活動なのかもしれません。

イーロン・マスク氏がCEOの会社がトヨタ自動車の価値に迫った時、マスク氏は「lol」とツイートしたらしいです。現在、市場の価値決定メカニズムは「lol」です。

 このマスク氏の「lol」こそが人間の不確実性であり、この株価の動きがAIによる人間性バイアスの増幅なのではないか?欲の最前線であるマーケットで起こる事態が通常の経済活動で起こらないはずがない。もしこのバイアスの増幅が無秩序に行われれば、人間そのものを不安定にしていくのではないか。

人間の資本活動が生み出したAIは、人間を根本的に作り変える可能性を秘めています。AIは「文明的に」人間は「原始的に」となるのが人類の未来なのかもしれません。

 

ここまで考えて、ふと「日本は究極の管理社会なのか?」という疑問が浮かびました。一見すると見えない空気に管理されているように感じるからです。しかし、この空気は自然物のような気もします。日本人は自然の未知性と折り合いをつけながら、バランスをとる自然状態に落ち着いていく感じがするからです。この空気は資本活動とあまり相性が良くないのかも知れません。とはいえ、資本活動の人間世界で生き抜くことも、自然な活動です。日本は難しい局面にあるのかも知れません。

 

と、「資本主義の物語」を書いてみました。この文章は私の物語なので勝手に書き換えるかもしれませんが、悪しからずご了承ください。