益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察と思いのままに気のままに

アニメじゃないけど

疾病対策に奔走され、命と向き合っておられる、医療、介護、保健所、消防救急、多くの人に感謝を。

この国は1か月以上時間を無駄にした。まず必要とされる事は介護の現場を守ることだ。武漢のデータから一か月以上前に予測できる。ここが崩壊すると医療が崩壊する。そしてもう一つは病院に出入りする不特定の人を減らす。救急外来を感染から守らねば、やはり医療が崩壊する。後者は現場の方々が政府に求めたようだが、しかしこの疾病は強敵で、どの様にしたらいいのか皆目見当もつかない。神経をすり減らす現場の取り組みの積み重ねに頼るしかないのだと思う。前者は相変わらず現場力という個人に依存しているように思う。介護の従事者やその家族を守るための措置が必要と思う。医療従事者については言うまでもない。

そして、生存が脅かされている社会への施策だ。大本営が上から目線で決めるのではなく、現場からの積み上げに対して柔軟に対応できる組織とその予算の大枠が必要だ。政治家がいくらバラまいたか自慢する時ではない。日本人の習慣から、爆発的感染には至っていない。この状況を最大限生かし守るべき現場に資源を集中すべきだ。

 

この国の代議士は全く仕事をしていない。バラマキの根拠たる事実は何なのか。お願いに対する謝礼。これがこの国の法の支配だ。命令すれば権利と義務の関係が自明となる。その根拠は憲法によってもたらされる。

しかし、国民も報道機関も政党も、この国の空気が金星の大気のように重いことを刷り込まれている。裁判所ですら、科学的事実に基づいて判決を出すためには、空気との阿吽の呼吸が必要だ。検察はどこの国も政府寄りになる。

この国の空気は組織の階層によって重層的にもたらされる。家、村、会社、社会、国。今回30万給付の話が出たとき、世帯としたのが、まさにこの国のかたちだ。人を見ない、無形の組織を見る。10万バラまくのは「ほしい奴が取りに来い」だ。政府が税金を施してくれるらしい。彼らは税金を分配する責務を負ってるのではないのか?

 

分配の根拠を作れないものだから、「ほしい奴は来い」悲しくなる(麻生氏の本音は案外理解できるが・・・)。このような形でバラマキをすると、国債市場に後々禍根を残す可能性がある。市場は規律の緩んだ国の債権をどのように見るのか。債券の格付けは国際的な金融機関に直接的に影響する。しかし、この結果は国民と報道機関がもたらしたものだ。未知の感染症に対し有効な人権の一部停止を含むような上位法を制定することに対し、報道機関はイデオロギーをもって阻害する。

報道機関とは民主主義の要であると常々思っている。世界を見ても権力との狭間で命を落とすジャーナリストは多くいる。報道には所属するその国のかたちの中だけではなく、多様な世界の価値観との対話などによる鳥瞰と倫理が必要なのであって、正義の看板が必要なわけではない。主義主張は必要だ。これが無いとゴシップになってしまう。しかし、正義の看板を掲げてしまうと、異なる正義から「フェイクニュース」として論じる隙を与えてしまう。インタビュアーが正義を振りかざせば、そこに生まれるのは報道ではなく闘争だ。報道の客観性とは中立性ではなく、自らと違う正義であろうと多面的にとらえる姿勢のことだ。

報道番組のアンカーが病に伏したが、彼に代表される番組のチームは世界から送られてくる報道から何を受け取っていたのか。このこともこの国のかたち、組織のために個人は暗黙のうちに状況を強制される。政府がしているお願いとほぼ等しい。

政府も違憲立法審査されることを過度に嫌う。お上は間違いを犯してはならないらしい。少しはトランプ氏を見習えと言いたくなる。代議士が憲法と立法に対し責任を負わず逃げているせいなのか。 

 

だが、日本のこの空気のおかげで介護施設などが、ぎりぎりで守られているのだと思う。この空気は利他主義的効果を持っており、義務感をもった人々が一所懸命に支える現場を作っている。そしてそれはやはり社会がよくなるためであり、また個人に犠牲を強いることでもある。日本の問題点は犠牲を強いているのに、そのことに無自覚な村の住人が大多数になりつつあることではないか。個を主張しながら村の美味しい所は利用する。近年そのようなほころびが、あちこちで見られるように感じる(個と村が逆の場合もある)。家は崩壊して久しいが、会社、労働にまで崩壊が及んできているのかもしれない。その場合、この国のかたちは新たなものに変わりつつあるということだ。

 

政治が変化に追いつけないと何が起こるのか。日本の空気の階層の内部の変化だけで済む問題なのか?今回のコロナによって、感染症に関して非常時にすべきことは、あらかた知見が得られるはずだ。公共の福祉と公衆衛生については憲法にも書かれている。国民の権利と義務をどのように考え説明するのか。代議士に課された責務だ。

 

そして、その代議士は国民が選挙によって選ぶ。

 

だが問題がある、候補者選定のプロセスがこの国のかたちゆえに、大きく歪んでいる。議院内閣制においては、基本的に代議士が国務大臣になる。社会の高度化に候補者選定のプロセスが追い付いていないように感じる。国民に寄り添う人から外交安全保障、社会構造、経済構造、法理論に精通した人まで、様々な人が代議士に必要なのだと感じる。腰巾着が必要なのでは決してない。これはそのまま政党の質を表し、ひいては、国の実力を表す。本来これらの専門家は代議士をバックアップすればいいのだが、社会が高度に成りすぎ、必要な見識、思考力が一個人で出来る範囲を超えている。一つの専門性と広い見識の両立という高すぎる理想を持たねば、国が立ち行かない。中央集権の限界なのかもしれない。現在の政府と議会が示している状況がこの国の半分の姿なのだろう。

 

と、一人の市民として書かせて頂きます。ビスマルクの法とソーセージの話の通り、心ある代議士にはとにかく、踏ん張って欲しい。今何を思っていたか、その記録としても残しておきます。標準治療が可能な限り早く確立することを願って。