益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察

「ハウルの動く城」考察

2018/3/18日更新

 この文章では「ハウルの動く城」を考察しています。これを読むことで、あなたは二度と「ハウルの動く城」を楽しむことが出来なくなるかもしれません。そのことを理解し己の責任において読んでください。映画は考えるものではありません。感じて、ふと、思い出すものです。「ハウルの動く城」について自分なりに理解を深めたい。その参考に他人の意見を聞いてみたい。そんな人が読んで下さい。これは感想文ではありません。あくまでも私個人の行った解析です。感想はその人本人のものです。そこを傷つける呪いとなるかもしれないという事を理解して読んで下さい。

 

私は「ハウルの動く城」がずっと引っかかってしまっていました。あの表現を無下に扱って、簡単に消費していいわけがないと。そして、この映画は感動で止めて、考えることはしなかった。しかし、2018年現在の状況は日本でも戦争を無視出来ない、そういうことになる可能性を無視してはいけない。簡単に「いくさ」にのめり込まないためには、反戦ではなく「だけれども戦争に突入する事態とは何か」について考えておかねばならない。民主主義国に生きる人はその事を考えるべきだと、私は思います。

ハウルの動く城」が公開された2004年は2003年にアメリカが情報操作*1をしてイラク戦争を始め、現在も続く苦難を決定付ける道へ突き進む、そんな空気に満ちていた時期です。法の支配から基本的人権の確立まで、この理念は近代社会に生きる人々が手に入れた、かけがえのない発明と発見です。

ハウルの動く城」を久しぶりに見る機会があり、改めて考えた結果がこの文章になります。

 

理性(理屈)と感性(感じ)と智慧、情熱と愛と世界の摂理*2(世界の約束)の物語

まず、この映画の第一観点として相応しいのは「女性のための物語である」という事です。男が男の話をしても殴り合って終わりです。女性が見て初めて魔法がかかるのだと思います。

  

サリマンは理性を荒れ地の魔女は感性を

ソフィーは理(ことわり)が治める街で帽子屋を営んでいる。この理は社会をより良くするために機能しているがソフィーを拘束する呪いともなっている。

『あたし長女だから』

『自分のことは自分で決めなきゃだめよ』

そこに荒れ地の魔女が現れ、好きかって言った後、若さへの嫉み(感性)を込めて呪いをかける。恐らく荒れ地の魔女の嫉みはハウルがテーブルの極印を消したとき消えている。しかし、感性と理性がこんがらがって強力な呪いとなってしまっている。この理とは普段人が当たり前だと思っている常識の事なのでソフィーに呪いの自覚はない。

『あんた誰』

『あたしは、ソフィーばあさんだよ、新しい掃除婦さ』

『掃除婦って誰が決めたの?』

『そりゃー、私さ』

ソフィーは無自覚に自分の役割を規定し、ハウルは何で?とソフィーに問いかける。就寝中は無意識の世界なので理による支配を受けず若さを取り戻す。ハウルの癇癪(感情の爆発)を目の当たりにしたソフィーは

『私なんか美しかったことは一度もない』

と理性的に感性の事柄を否定し、こんがらがった呪いを自ら受け入れていることを言葉にして認め、感情の赴くまま泣く。

  

王宮へ向かうソフィーと荒れ地の魔女

『お守り、無事に行って帰れるように』

ハッとするソフィー

『僕が姿を変えて付いていくから』

『さあ、行きたまえ』

ハウルから魔法の指輪を受け取ったソフィーは、王宮のサリマンのもとへ赴く。荒れ地の魔女はサリマンの罠にはまり、理性が司る論理の光を浴び、感情を焼き尽される。ソフィーの理(常識)に反するサリマンの対応に彼女の感性が目覚める。そして、純真なハウルを信じていると、己をさらけ出す。

『恋しているのね』

サリマンのすり替えのおかげでソフィーは愛を自覚するが、理性がそれを阻む。ハウルは理性と感性のこんがらがったソフィーを囮にしてサリマン先生への誓いを果たそうとするが、数多くの情熱を手なずけ配下に治めたサリマンには歯が立たない。このシーンではソフィーの表情と仕草が理性と感性の葛藤を現している。ソフィーはハウルの見栄も弱さも癇癪も知っている。ハウルが魔王に変わることを智慧で阻む。

ソフィーが動く城に着いた後、指輪の力も借りハウルの夢を見るが、すでに半分魔王化している。ハウルの呪いを解きたいと伝えるが「自分にかかっている呪いも解けないものに、できるはずがない」と理性で反論される。それでも、呑まれくことなくソフィーはハウルに愛を告げる。

過ぎ去っていくハウル、理性に怯え呪われた姿に戻ってしまう。目覚めたソフィーはカルシファーを理性によって問い詰める。一人で情熱と向き合い、魔王になり果てようとしていたハウルは、ソフィーの愛によりその根っこ(実態)を得る。ハウルは引っ越しを決断するがその根っこ(家庭)から呪いが生まれる。理は根っこから生れ、その物を拘束する呪いともなる。戦火に巻き込まれていく家庭。家の外を見つめ町が炎に包まれていくのを見た時、感性によりその理の理不尽に気が付く。

ハウルは家族を守るために戦うことを選ぶが、ソフィーはそんなハウルを見送るしかない。ソフィーの中で理性と感性が智慧として目覚める。カルシファーハウルの情熱の炎)を焚き付け誉めそやし、自分の髪の毛(時)を差し出し、呪いを己のものとする。

 

カルシファー火の悪魔(情熱)

情熱は強力な心臓を必要とする。少年のハウルが見た流れ星は、人々が寄せる情熱のかけらだ。情熱を持ち続け常に行動し続ける為には、その者の心臓を差し出さねばならない。その代わりに強力な力を手に入れることが出来る。しかし、自分の心臓を差し出したハウルには、その情熱が向かう先を定める根っこがない。ハウルは心臓を張りぼてで覆い隠し、自らを着飾り、人の心臓を食べて回る。そしてサリマンの前で遂に、戻れない一線を越えそうになる。ソフィーの愛によりその根っこをついに得るが、理と戦う矛盾により、やはり魔王になり果ててしまう。

ソフィーは指輪の力と願いによりハウルの深淵を見つめる。そして、己の愛と願いによりハウルカルシファーを救える確信を得る。ハウルの心臓がソフィーを根っことするならば、水をかけたくらいでは情熱の炎は消えたりしない。ソフィーは自身の愛と情熱と願いによりカルシファーを世界の摂理とする。そしてハウルは己を取り戻す。

 

心臓

サリマンも荒れ地の魔女も欲しいのは心臓。人の芯をなすもの。そこは己のみが知るもの。それを欲している。

 

指輪

 映画「ハウルの動く城」の魔法

 

願い

 原作「Howl's Moving Castle」の魔法

 

 ハウルとサリマンの誓い

  思いを実現するための手段との契約

 

このほかにも老と若、男と女、戦争と家族、子育て論、都市と町と荒れ地(自然)、人の業など色々な観点があります。あまりにも複雑で、こぼれ落ちすぎて一貫性(筋)を貫けたのか疑問が残ります。あえて言えば「愛」ですが、本来ならソフィーは花屋に、ハウルは花園の管理人に、というのが人々の感覚に一番近いと思いますが、2人とその家族は飛んで行ってしまいます。根っこが抜けて飛んで行ってしまう感じがするのです。「ハウルの動く城」には帰り道がありません。智慧で戦を乗り切った、ハッピーエンドがあるだけです。

 

そしてエンディング

サリマンは『戦争を終わらせましょ』と唐突に告げます。理性が不条理に変わる瞬間です。理性で始めた戦争(理性だけが始めたかすら怪しいですが、これもこんがらがった呪いなのかもしれません)がその理性によって終わります。エンディングを迎えたので終わるのが当たり前なんです。戦争に負けた(目的を達成できなかった)のにそれを続けるのも、勝った(目的を達成した)のにそれを続けるのも、理性的ではありません。戦争に負けたのに続けるのは感性の問題なのです。この結果は、きわめて理性的です。この不条理はソフィーが魔女の呪いをマルクルに話せないシーンから、理不尽という形でたびたび現れ、ソフィーはその葛藤から感性と理性を研ぎ澄ましていきます。

しかし、戦争がもたらしたエンディングの理不尽は理性も感性も吹き飛ばし、人々をただただ打ちのめします。劇中に描かれた淡々と進行していく戦況の不条理に当てられ、呪われていきます。「こんな終わり方はおかしい」と。

 

飛び去るお城

一番最後の解放されたカルシファーが戻ってくるシーンから、お城が飛び去って行くシーンまでの間に、どれだけの月日があったのか。あの城は魔法でこさえたものなのか。自分たちで築き上げたのもなのか。異次元ドアのつながる先はどこになったのか。(私は、お花屋さん、花園、お城、秘密の扉、の四つになっているのだと思います。)この間の時の流れだけで映画が出来てしまいそうです。

この部分を描けなかったことにより、あまりに唐突なエンディングとなり「ハウルの動く城」は「ただの夢」となってしまう可能性を持っています。(宮崎さんと鈴木さんは頭を抱えたのでは、と想像してしまいます)

 

智慧

ソフィーの義母さんも、レティ―も智慧を持って生きています。智慧とは難しいことでは無く、理とバランスをとって、笑ったり、泣いたりする普通の人の暮らしの事です。(現代はちょっとバランスが崩れている気もしますが)これとは別に理に戦いを挑むのも智慧ですが、こちらはその心、志を喰らわれないようにせねばならず、とても過酷です。(尊敬の念はこのことを感覚的にわかっているから生まれるのかも知れません)

 

世界の摂理

神様がくれたのかも知れませんし、自然がくれたのかも知れません。とにかくみんなが幸せになる「世界の約束」です。

 

 問題点

・帽子屋(家業)の仕事が否定的に見えてしまう。

・花屋の仕事を奪っているように見えてしまう。

ハウルの犠牲になっているように見えてしまう。

など、戦争(不条理)が入ったことにより、「奪われる」「与える」という事柄が、強引になされていく印象があります。そして、これらの現実的要素を無視しすぎると(戦争の要素を強めすぎると)、飛んで行くお城(これを難民とみることは許されない。前述で指摘した行間が描かれている前提で、その結論としての未来ならありですが、その過程が描かれていないので無理です)と合わせて、ただの夢になってしまいます。

これが宮崎監督の言う、「原作の罠」*3ではないかと思います。この「女性の願い」という原作の強力な魔法によってのみ、このハッピーエンドは正当化されるのです。「男達の見る世界」と「女達の見る世界」は違うものである。という当たり前の結論になります。それでも、男も女も人である、ということに変わりはありません。

 --- 2018/3/18追記 ---

異次元ドアに付いてですが、帽子屋、花園、お城、秘密の部屋、の四つかも知れません。エンディングでソフィーは帽子を被っています。この帽子が自分で作った物なら、ハウルが勝手に決めた花屋でなく、家業を自分の一部として認め、そのスキルによって作ったのではないかと考えることが出来ます。その場合、問題点の一つである、家業への否定性はクリアされていた事になります。また、花屋を奪ったというのも、そもそもハウルが勝手にやったことに従わず、自らの意志で帽子屋を選んだとすると、クリアされていたことになります。

 

ハウルカルシファーの契約

人として許される熱意とは何なのか。ここには宮崎監督の哲学が表れている気がします。情熱は人を狂気へも導きます。その時、人間性を貫くための支え、人のつながりがその支えであり、家族、大切な人こそが自分自身を繋ぎとめる細い一本の糸となる、という事のように思います。しかし、ハウルはその人を守るために、いくさ場で魔王になってしまう。人間の本質とは何なのでしょう。結局はその時の選択を自分自身が信じられるかどうかであり、その道筋を照らす光こそが本来の「理」であり、「人と人の繋がり」であるのかも知れません。

ソフィは当初「理」の呪縛により、身動きが取れなくなっています。しかし、「理」の意義を大切にしていたからこそ、ハウルを救うことが出来たのかもしれません。世の中には理不尽なものから道理の通ったものまで、様々な「理」が存在します。その「理」との葛藤と理解、そして幸せを目指すというよりも、安らぎのある生活を目指すことが、現代には必要なのかもしれません。そんなもの何処にあるんだ、と言われそうですが、立ち止まると結構近くにあったことに気づいたりします。

ちょっと休んで、カルシファーが動かす城に乗って、飛んで行くことが必要なのかも。

--- ここまで ---

 

『』内は作品セリフの引用です。

 

ちなみに私が映画館でハウルを観た時の感想は「奥さんへの恋文かな」です。ここまで読んで下さり、ありがとうございました。

*1:その後発見されるhttps://www.cnn.co.jp/usa/35055241.html

*2:西洋的「神」ではない

*3:引退会見https://news.mynavi.jp/article/20130907-miyazaki/