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益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察

「君の名は。」考察

伝統(歴史)と現(現代)の結び

 

三葉は歴史の町で伝統に縛られ生きている。

瀧は現代の都でただ現を見て生きている。 

 

 

以下ネタばれ、妄想解釈を含みます。そういうのがお嫌いな方は、読まないほうが良いと思います。

 

 

 

この作品を三葉(伝統の体現者)、瀧(現代の体現者)という観点で見ると面白い。三葉は一度死んでしまう。伝承から情報が失われ伝統のみが残り、その意味を解釈できなくなり災悪に巻き込まれる。しかし、三葉が伝統の軛から逃れ外の空間を求めた時、新たな物語が始まる。そして、三葉が結び目を探し始めた時、世界は変わる。

 

瀧は恐らく空虚の中に生きている。彼の結び目は友人しかない。青臭い正義を抑えきれないのもそのせいだろう。周りにあるのに認識できない空間。(作中ではやたらと扉が開いたり、閉じたりする)

だが、ありえない出会いがそれを変える。青臭い正義は、ラブレターを貰えるものでもあることを知り、空間の広がりを知り、伝統を知る。もう求めずにはいられない。三葉を愛してしまう。そして、瀧が結び目を探し始めた時、世界は変わる。

 

現を生きる瀧、伝統に捕らわれた三葉、現、伝統、文化の力を借り、人々を避難させることに成功する。少なくとも人々は、助かったのである。

隕石によって人々が死んでしまった世界は継承に失敗した世界であり、若者がどんな形であれ継承に成功した世界が、人々が「生きている」世界なのである。三葉が未来を変えて回避するのではなく、瀧が過去の糸(伝承、神話)を手繰り寄せ三葉に知らせる。伝統に魂が宿り被害を最小化する。二つの世界を見せている。

そして新海監督は若者を祝福しつつ、突き放して終わる。あとは君たち次第だ。

 

今の日本を思うとき、地名や伝承などで最小化できる災害もある。しかし、現を生きる我々はそれが容易で無いことも知っている。町長は妄言と一蹴する。

 

日本のアニメーションという小さい世界で考えると、新海監督は今まで、自分の世界の構築に、デジタル(CG加工、撮影)という道具を用いてきた。描かれた背景に光と影を与え、光(色)を動かすことで、彼の世界はほかのアニメーションとは違う、彼の世界を構築している。

写実的だが実写でない、光(色)と影の情報が引き伸ばされる形で情報が整理されている。必要な光(色)と影をより際立出せ、動かすとこが新海世界の秘密であると思う。

ここでジレンマが生じる。物語るための「人」はどうすればいいのか。新海監督は前述の技法に、親和性のある、記号としてのセルアニメの技法を用い「人」を描き、演技に制限があるのでモノローグを多用する形で物語を進行させる。

本来、セルアニメの技法と新海世界の技法は相いれない部分が多いのである。通常のアニメは背景の情報をコントロールしてアニメキャラと整合性を持たせる(星を追う子ども)が、それでは新海世界(言の葉の庭)は構築できない。

 

作画アニメーションには莫大な時間(金)がかかる。そのために今までは困難だったのかもしれない。だが今作は、日本のアニメーションを文化とまで言わしめるに至るアニメーターが、数多く参加している。彼らはさらにその前のアニメーターから技術を引き継ぎ己が物としてきた人たちである。

この職人表現者集団が加わったことにより、「人」の幅が格段に広がっているように思う。(三葉の走馬燈の場面は久々にアニメーションを見ている気分になった。)もう少し作画を信用した脚本コンテだったら、もっと良くなっていたかもしれない。

 

 

ここからは物語上の疑問などを書いていく。多分に妄想的なので、他人の解釈に左右されたくない人は読まない方がいいと思います。

 

 

 

時間の概念について

 

この物語での時間はルーチンワーク「繰り返され紡がれ続けるもの」という意味以上は恐らくない。ここに「人」という空間が結ばれ、時空を超えた、八百万の物語が生まれる。時間軸のことを考える場合の最大の問題点は、未来を知りたい、過去を変えたい、という欲求。

 

三葉の場合、「自分の死を認識した時、それについてなんらかのリアクションを起こすはずである。」というものである。

ここで重要なのは三葉が3年後(未来)の自分が、今の自分と違う何者かになっている可能性が示されているか、ということだと考えられる。本作では未来の自分への期待よりも、ほかの何者かになる妄想の方が、はるかに大きい状態であることが示される。よって、三葉は未来を詮索することよりも、瀧であることを楽しむことに全力な方が、自然なのである。

三葉は恐らく、3年後の自分など見たくもないのかも知れない。だから、たとえこの状況が未来だと知っていたとしても、忘れたい町の事など詮索しないのだ。

人が何かに熱中している時、時間は邪魔なものでしかなくなる。ただその事に没頭し続ける。それが終わろうとしている時、或いは終わったとき、過ぎ去った時間を感じる。

瀧は過去の三葉から貰った組紐を持っている。これを三葉が見つけた時、三葉は瀧の時の記憶も共有できるようになったのかも知れない。三葉が瀧に会いに行くという事は、3年という時間のズレ、今の瀧は自分のことを知らないという事実を突きつけられるという事である。時間の断絶が事実になった時、この恋は終わった。そして、本来会えるはずのない人との交流が真実であったという証の為に組紐を渡す。

 

瀧はいろいろと馬鹿な思春期の男子を体現している。そのうえ「母」がいない。彼がどこを向いて歩んでいるのか見えてこない。彼は今日が何日で何曜日なのかも興味がないのだろう。半日遅刻しても友人からあの程度の反応で受け流される日々を過ごしている。いつも、目の前の気に入った景色を、時間も忘れてスケッチしているのだと思う。

 

とここまで妄想してみたが、どうも説得力に欠ける。そこで視点を変えてみる。

 

人は時間をどのように認識しているのだろう、子供の頃は、明るい時と暗い時という空間変化との接点。青年期はいくら有っても足りないもの、或いは早く過ぎ去ってほしいもの、或いはいつの間にか過ぎてしまったもの、そういった主観的な接点。大人になると、繰り返される日々の確認、自分と空間との客観的な接点。

 

本作は時の流れの目盛り(暦)に意味を与えていないのではないか?その時の空間との接点としての時間。スマホの画面で暦を見せるが、それは、三葉と接点のあった時の流れに過ぎない(主観)。この論法で登場人物に見えるものを観客に見せる演出をすることで、スピード感を持って断絶の時まで一気に進んでいく。

三葉との交流が途絶えた後は、瀧の空間(主観)と時の流れ(客観)の戦いになる。この時「すべてが自分の妄想なのではないか」と追い詰められた瀧を救うのが「組紐」、ファンタジーの魔法である。「人」のすべてが紡がれ結ばれている神話の世界、物語の世界。

この演出法に乗れなかった人の置いてきぼり感は半端ないと思われる。ほとんど賭け、大博打である。或いはそれだけの画面構成力、編集、フィルムの力に自信があったのか。

 

2人の心の変化(何時、恋したの?)

 

 入れ替わり初期は、性の交換、現状の把握に忙殺され、カオス状態だと思われる。

 中期では人間関係の観察、社会的ポジションの把握が行われる。

 後期では、把握したポジションへの自己からのアプローチが積極化される。

本作では当初2人は夢だと思っているので、その期間は初期と後期の自己主張が同時に進行している。

 瀧は単純、三葉の背負わされている義務を全く理解しないで貶す者へ、彼の方法で行動する。また、その義務を経験する内に、自分が持っていない空間への憧れも生まれる。まさに、守ってあげたい存在になる。自分の体が三葉の時、子離れできない母親のような、お節介に辟易とし、三葉の気配りと思いやりに魅かれていく。三葉とのつながりが途絶えたことで、思慕の念が強くなり、好きだったことに気が付いたのだろう。藤井が美人局を心配するほどになっていく。

 

三葉は複雑である。イケメン男子になりたいといっている彼女は、巫女の義務から逃れたいのだろう。そのため彼女のフォーカスは「この男子が恋してそうな女子とデートをしてみる」という所へ向かう。だか、彼の生きている空間は閉じ込められている自分の空間と違い、外に無限に広がっているように見える。青臭い正義を臆さず実行していく瀧を、自分の立場で、瀧の立場で感じていく。

瀧は、バイト代を喰いつ潰す三葉を説得してまで、止めようとはしない。これは、特に決まった目的があるバイトではないという事だ。恐らく、行動の自由を確保するための資金稼ぎなのだろう。こんなにも自由に、行動的に生きている瀧のことを、三葉が意識するのは自然に思われる。(瀧自身はただ、もがいているだけだと思われる)

三葉は奥寺先輩との交流中、瀧を演じながら、自分を奥寺先輩の立場に置き、瀧との交流を想像していたのではないか。そして、「私がデートに行きたかったが、行きたくない」境地に至ったのである。

三葉は、東京に向かう決意をする。ここの行動がいささか極端すぎる気がする。これまでの気持ちの変化だけでは、これだけの行動を起こす説明がつかない。しかし、時間のズレに気が付いていて「この恋が幻なのか、ありえない出会いだったのか」それを確認しに行く為だとしたら、それなりの説得力が生まれる気がする。自分と同じ身長の瀧を見た時、この恋は夢と消える。もう一つの可能性として、口噛み酒を奉納したことにより、巫女として能力、御神体との結びにより、もう二度と会えない予感に駆られた可能性もある。こちらでも動機づけとして十分に思われる。

 それぞれが求めていたが、持っていなかった空間。入れ替わりの先にそれが有るとき、その場所は心地いい物なのかも知れない。三葉の過度な干渉により、瀧の空間に大きな変化が起きた時、なぜ自分はそこまで本気で干渉したがったのか、本当の気持ちに気が付いたのだろう。そして、真実の証として組紐を手渡すことにしたのだ。(隕石が落ちなくても、この交流はここで終わったのかもしれない。)

 

スマホの日記はなぜあの時点で消滅したのか

 

これは、人の認知範囲とかかわっている。その人が認識するまで、その他の世界は存在しないというものである。瀧の空間で三葉は生き続けている。しかし、隕石の落下で町は消滅し、命も失われているという事実を突きつけられる。

今まで存在していた彼の周りの空間が崩壊する。時空は断絶し過去の記録は意味を失い、想像、妄想の世界に代わる。スマホの記録は起きた事実によって消えていく。(あえてシステマティックにして、失われていく悲壮を演出したのだろうが若干理屈が鼻につく。しかし、幻のように消えてしまうと、三葉との出会いは、真に幻になってしまう。本当にあったことが消えていく、というのが正しいのだと思う。原理は企業秘密だと思われる。)

しかし組紐がある。思い出、記憶という情報ではなく、2人の時空の結晶。結びの証。これがまさしく魔法である。(瀧は三葉から渡された組紐を付けている時、より深く三葉のことを感じることが出来るのだろう。これが組紐を受け取って三年後から交換が始まる理由かもしれない。酒の熟成ではどうも納得できない。)

 

また同様に、瀧が隕石の落ちた町の名前を忘却しているのは、自分が体験している生きた三葉の空間認識(主観世界)が優先され、事実に上書きされている状態だと思われる。この状態で瀧が町の名前を知ったとしても、それは意味のない文字列に過ぎない。3年前(過去の出来事)、町の名前、彗星、衝突、これらの要素が執拗に示されない限り、思い出さなくても不思議はない。人は自分の信じたいものを信じるのである。他人から見たら、まさにちょっと、おかしい状態になっている。

 

黄昏時の再開後、なぜ二人は名前を忘れてしまうのか。

 

瀧はすでに三葉の命が失われているという時空に生きている。魔法の力で再会することは出来るが、それが妄想なのか現実なのか判別することは出来ない。「組紐」を三葉に返して結びは消えてしまう。一人で峰に佇むとき、時間という強力な斥力によって客観的修正がおこなわれ、出会いは夢、幻と消えてしまう。三葉が人々を救った後、瀧が山から下りるとそこは、別の時空になっている。しかし、口噛み酒の結びだけは残される(血肉になっているため)。

 

三葉は複雑である。一度死んだという記憶と、町の人を救うべく行動する記憶が混在している。

東京から帰ってから死ぬまでの間、三葉は組紐を付けていない。だが、黄昏の邂逅後は瀧から渡された組紐を付けている。三葉が受け取ったことで瀧との「結び」は失われてしまう。

三葉が被害を回避しようとしている空間の時が組紐に紡がれる。組紐によって繋がっていた未来の瀧との出会いの記憶は、自分の死の記憶と共に失われる(まだ起きていないので存在しない)。だが、組紐には瀧が持っていた時に紡がれた結び目だけは残されている。

瀧は三葉から貰った組紐を持っている。そして三葉は瀧から貰った組紐を持っている。同一の組紐が二つ存在している時空。三葉は夢の中で想い続け、3年後(三葉20歳、瀧17歳)瀧の組紐の結び目が三葉の組紐の想いを受け止める。瀧の結び目(過去の三葉に繋がっている17歳の三葉と17歳の瀧)で邂逅が起こる。しかし、時空が捻じれているため、体が入れ替わる。(ここまで来るとほとんど妄想なので、軽く受け流してください^^;。書いていて、四葉が泣きながらおっぱい揉んでいる三葉を見た時の「やばいよ、やヴぁいよ・・・がなんとなくわかって来る・・・」

 

三葉父(町長)は最後、なぜ三葉の進言をすんなり聞き入れたのか?

 

大人と子供の戦いは、秩序と混沌、信頼と裏切り、愛と別れ、これらの合わさった「青春の戦い」として認識されている。この親子はまさに、すべての象徴なのだ。

本作では、これらの多くを「父」も拒んでいる。父は必死に足掻いた子を受け入れられるのか。監督の手腕が試される。父が知っている子の情報も、父自身の情報も圧倒的に少ない。観客側が「父は受け入れるはずだ」と思うしかない。

理屈をこねる脚本も可能だと思うが、この場面で入れるのは、映画のテンポをぶち壊してしまう。(しかし、隕石相手では町に落ちる確率が低すぎて、リアリティーにかける気もする。だが災害大国日本では、何かが起こるという緊迫感の演出目的が達成されていれば、隕石「災害」へ、すり替えが可能である。)

 

組紐とは?

 

この物語の魔法のアイテム。すべてを紡ぎ結んでいる。伝統、文化、伝承、神話、物語という時の流れを現している。人が身に着け現が紡がれることで時空そのものとなる。

 

御神体の地

 

この地の景色は変である。あの外輪山、あれは明らかにクレーターのあと、しかしそこには植物が存在しない。ここに至る道筋では、植物が明らかに少ない。日本では、あれだけ植物の少ない場所は限られる。また、町の湖がクレーターであったいう指摘はあるが、あんなに見事なクレーターについての指摘は一切ない。あの地はきっと神話の地なのだと思う。どこかの時点で、神話の地に入り込んでいるのだ。そして、川を渡るとそこは、神の世界になる。その中心に、ご神体がある。

 

三葉の体で瀧の魂が三葉の半身を奉納する。瀧の体で瀧の魂が三葉の半身を飲み干す。

瀧が見る三葉の走馬燈、瀧の体に三葉の魂が流れ込む。

三葉の魂は瀧の体に宿る。瀧の魂が三葉の魂と入れ替わり、最後の眠りから覚めた三葉の体に宿る。

魂が求め合い、二人が出会う。時間を超えて紡がれた空間。そこは神話の世界。そして、2人の魂が結ばれ元の器に戻る。

 

ここで語られる二人の世界は、人が太古から求めてきた物語の真理の一つである。文化、伝統を受け継いできた三葉にしか、この回答を引き出すことはできない。そして、瀧が見つけ出さなければ起こすことは出来ない。(その裏で起こる恐ろしい出来事の数々も物語の真理の一つであるが、本作ではあまり見せない。というより、隕石により失われた町があるいみその恐ろしい現世だったのかもしれない。)

そして代償についてである。あそこから帰るには代償が必要なはずである。瀧があそこで失った物は何なのか?人々を救ってしまっているので、とてつもない代償を支払っているはずなのである。

ここで不謹慎な景色が見えてくる。もし、瀧が三葉だけ救っていたら?

なぜか自分だけが助かってしまった三葉はどうなるのか。

そして、助けたかった「あの人」のことを忘れてしまう瀧。別れもなく、心の中にあるのは、失われた「あの人」の魂が作る巨大な虚無・・・。その虚無が何なのかさまよい続ける。恐ろしい代償だと思われる。

恐ろしすぎる・・・・・。

 

 

本作最大の問題点

二つの時空(三葉の死ぬ世界、生きる世界)は、脚本の為に創造されたものなのか、世界の必然で創造されたものなのか。

災害の記録の魂を継承している世界と、それが出来なかった記録の残滓の世界。その対比から伝承、伝統、文化、歴史に、今を生きる人々がどのように命を吹き込むかを描いた作品という見方が成立すると思うそのために神話的、歴史的な構成が多用されている。よって、私は脚本の手管の為ではないと思う。そして二つの世界はどちらも現代の真実なのである。

 

この問題は多くの小説、ドラマ、映画などの表現活動で問われる。宮崎駿作品の優れている点は、観客がその世界を信じられることにある。細かい事は分からなくても、この漫画のようなファンタジー世界は、この世界で起こっている事だと感覚的に納得できるのである。これがファンタジーの言葉である。この言葉が通じなくなると、ファンタジーは力を失う。幼稚な絵空事は見ていても苦痛でしかない。観客が観て感じたことがその結果になる。

そして、死を扱った場合、制作者はその呪いから逃れることはできない。

 

色々と問題点があるにしても、この作品は素晴らしいと思う。過去の商業アニメーションでは描けていなかった何かが、確実にある。

最後にこれは、映画のみから考察したものである。映画と小説、合わせて一つなどというやり方は受け入れがたい。また、2回は見ているが、いろいろと勘違いがあるかもしれない。その点はご容赦願いたい。ご指摘いただければ、修正等、検討いたします。

 

この文章は伝統(歴史)と現(現代)の融合 - ユーザーレビュー - 君の名は。 - 作品 - Yahoo!映画ここに投稿した物に加筆して書いたものです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。