益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察

「失くした体」という、はてしない物語

この文章は映画「失くした体」の構成、あらすじ等その内容を推察できる要素を含んでいます。映画を見ていない方は読まないようにしましょう。この映画は細部まで、とても繊細に作られています。ネットフリックスで観られますので、作品を鑑賞してから読んで下さい。更に私は日本人です。この文章に何の意味があるのか分かりませんが、「失くした体」で感じた引っかかりを解きほぐすための何かになれればと思います。

 

2/16日付、日経新聞の文化欄に掲載されていた佐藤文隆さんの話を読んでいて、「失くした体」の正体がわかったような気がした。不思議な表現に共通することだが、何かを観測(感じる)する操作をすると、その表現は途端に姿を変えて、答えのような感動や戸惑い、慟哭や怒りの表現型として見えてくる。答えそのものを描いていないのに。

この映画は考察することで、その観測装置(設定条件)にとっての最適解を返してくる量子コンピューターのようにふるまう。シーンとシーン、或いはプロットが量子ビットのようにふるまっている。その数が多いほど複雑な世界を現せるようになる。

要するに、手出し無用の迷宮のようなものだが、そこは人の性、知りたいのだから仕方がない。

 

メインストーリー???

まず大枠として感じたのは、自由意志としての手と、運命(凶事の鎖)という悪魔としての蠅です。これにフランス国旗を足すと大筋はつかめます。このままフランス映画だ、と定義することもできます。しかし、ナウフェルのルーツがモロッコであるらしい描写があり、さらに音声化された情報としての声と、その土地が合わさります。ここまでだけで世界は、はてしなく広がっていきます。

また、ナウフェルの将来の夢は科学と探求としての「宇宙飛行士」と、文化、芸術である「ピアニスト」としてかたられます。もう手に負えなくなってきます。

 なのに、この映画はこれらだけでは許してくれません。手の冒険は哺乳類としての発生から体をなくした科学という、情報化された現代の人類までを描いていき、ナウフェルは体をなくす前までの人類として描いていきます。

これらを踏まえてこの物語を読むと「はてしない物語」になってしまいます。以下、とめどなく書いていこうと思います。

 

あのエンディングをどうしたらいい?

なんか、不穏な感じがした。青年の自立などでは、とても片づけることが出来ない。第一感は、それでも我々はナウフェルに寄り添うことが出来るか?というきれい事抜きの問いかけだった。トリコロールに身を包んだナウフェルに対し我々は平等と博愛を示せるのか。そこで気が付いたのがジジだ。ナウフェルが赤いペンキで塗りたてのドアに手形を付けてしまう。ジジはひと刷けで直るさ、と何事もなくナウフェルを丁稚にしてしまう。こちら側からみれば、青年への問いかけにもなる。

運命をはねのけるようにタワークレーンへ飛び移るナウフェル。タワークレーンというのは自力で伸びていくことが出来、自立している。そして建物を造る時にも壊すときにも使う。さらにこの巨大なクレーンは細かく分割してあちこちに運ぶことが出来る。航空障害灯は赤く小さい。これは警告なのか。しかし、降りしきる白い雪は、赤い光に、ほのかに照らされている。ここでも答えは出さない。

いままでは運命の過去だったカセットに、意志の記録を残す。このことも凄い。このカセットを聴くのはガブリエルだ。彼女はカセットの記録から、ナウフェルの心に、後から触れる。 ここで思い出すのが、ナウフェルが初めて「自分」に出会った、ガブリエルとの会話だ。インターフォン越しのその声に、ナウフェルは出会った。その時の意志の声が、このカセットに録音されている。それはもう運命ではない。ガブリエルはこのカセットに出会って初めてナウフェルを「心にいる人間」にする。その先のことには答えを出さない。ジジの最後の言葉に対しても答えはない。

この記録をナウフェルが残す時、カセットに残された事故の記録に上書きしてしまい、その記録を消してしまう。ここにちょっと引っかかった。たとえ事故でもその記録を残すべきではないかと思った。このような問題に出会うと、意見の一致などというものは幻想なのではないかと思ってしまう。しかし、だからこそ、こういう映画が必要なのだと思う。この映画では自由意志の記録のみをあのカセットに残す。すなわち、ナウフェルの意志の手がマイクを握っている時の記録のみを。だが更に考えると、もう一つの問題が出てくる。幼いナウフェルは消してしまったその記録に対して、何を負っているのか、という見方だ。この問題はとてつもなく繊細だ。人類の記録と人間の土地の記録。いつまでも争う人間の土地の記録と、どのように向き合うか。非常に困難な命題だ。

 

 あの手をどうしたらいい?

 手の旅立ちの冷蔵庫は、献体が収められているのか?とにかくあの部屋からの逃亡は科学からの脱出だと思った。あの窓から外に出ることが出来れば、もはや科学がその姿をとらえる事はできない。理性から生まれた科学。そこからの跳躍先がテレビアンテナというのも皮肉だ。

この後、手は大冒険をしていく・・・。

冒険が終わりナウフェルのもとにたどり着いた手、このシーンがまた凄い。たどり着いた後ナウフェルと手がくっついてしまえば、はいハッピーファンタジーね、となり、一緒になれずに手が消えてしまえば、はいダークファンタジーねとなる。ところがこの映画は、どちらも拒否する。この手はナウフェルのものであり、ナウフェルのものではない。この手もまた自由意志を行使する。この手こそがこの映画の魔法ではないかと思う。ナウフェルの自由意志の声を聞くガブリエルを見届け、雪原に傷をつけ、ナウフェルの手としてナウフェルを見上げ、手もまた運命の悪魔から逃れる。この手はナウフェルとガブリエルを信じていたのだと思う。

 

ガブリエルとは誰なのか?〈この項は私がガープの世界を読んでいないので、後で更新するかもしれません〉

ルーツはレバノン?シリア?フランス?ルーツを考えることは平等と反する。しかし人間は所属という安定を求め、これに触れなければ、きれい事になってしまう。識別意識はどこにでもある。無い方がおかしい。ガブリエルはピザの宅配人に対し、初め何を思っていたのか?

彼女は「ガープの世界」が好きだという。

ナウフェルは子供っぽい。初めて友達を持った子供のようだ。その結果大人であるナウフェルの行動がストーカーになってしまい、自他の境界と、男女の問題がゴチャゴチャに進行していく。そのためにナウフェルとガブリエルの関係がとても不安定に見えてくる。

 

あのハエ・・・・・・

このハエを捕えようとすると、こちらが捉えられる。しかし、ほっておけば、ただのハエだ。運命は利己的に意味を求めると現れる。

ここにも別の問題が潜んでいる。切断されてしまったナウフェルの手、そこから這い出てくる、あのハエ。そして、ヤギの角の上にとまるハエだ。このハエがナウフェルの手と再会する。この3つは三人称、神の視点、見えざる視点だ。自由意志によってもたらされる自己の運命、自己責任。生まれてから幼い時に決まる唯一の運命、人間の土地。そして、自然世界の運命、未知。

自由意志は真っ白な砂浜という人間の土地に手形を残したときに始まる。

エンディングから来る印象とフランス映画という解釈から、ここは一見、運命否定のように見えるが、その人が生まれ育った人間の土地によって、思想信条、信教の自由が付与され、決定論となることを避けているのではないかと思う。図書館という知識の場によって、未来の決定権も保留されている。

 

希望はあるか? 

「失くした体」では、手とハエの印象が強烈なので、希望の要素が見えにくいのですが、ガブリエルが使っているヘッドホンに代表される彩度で表されています。また、赤は様々な意味で用いられ、人間の感情の中心的なものとして印象付けられています。ナウフェルが見つめるエンディングの街並みの色彩こそが、今の世界を現しているのかも知れません。

 

右手、左手。

体というフランス建国から切り離されるのは、右手です。ナウフェルは運転が下手だった。右手の運命を恐れ無意識に左側にハンドルを切ってしまい、慌てて右に振っていたのでしょう。見えない運命の蠅を追って、自ら運命を作ってしまう。共和という言葉がフランスでどの様に語られるのか。砂浜を走り去るナウフェルは幻影なのだろうか。ひるがえって日本という、人間の土地はどうなのだろう。過去には「神」と「国」を合わせて「神の国」と幻想的にいった人もいたが、この国のかたちは何だか、幻想的な空気を持っているのかな、と思ってしまう。まるで坂の上の雲のようだ。

 

と、量子コンピューターを手掛かりに、いろいろ考えてみました。「失くした体」にはきれい事抜きの、これからの世界で大切な物が、いっぱい詰まっているように感じました。日本という人間の土地からこの映画は、どの様に見えたのでしょう。

ラストカットは、ナウフェルに背中から寄り添う、誰かの視点だったのかも知れません。しかし、誰もいない。どうしたら嘘を付かずに、このエンディングを肯定できるのか・・・。

「星の王子様」最終章で、サンテグジュペリが気にしていた、赤いバラは羊に食べられてしまったのか、王子が丁寧に守っているのか、この問いかけを思い出しました。ガブリエルが微笑み見つめる街並みは、彼女の眼にはどのように見えたのだろう。

 

スシが上流階級的イメージで使われているのが、何だかちょっと悲しかった。確かに高いけど。