益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察と思いのままに気のままに

生きている。

死とは何なのか。

無くなること。消えること。自然に帰ること。意味をなくすこと。人間が死を認識していること自体が生であるのではないか。

生とは何なのか。

在ること。感じること。生きながらえること。意味を成すこと。意味を成すとは、目的に対して合理であるという事ではないかと思う。そして、この目的を生成し循環させているのが社会と言えるのかもしれない。

当然だが目的は単純なほうが楽だ。しかし、「生きながらえる」という生命活動の本質から逃れることはできない為、社会はより複雑に怪奇的に発展してきた。その結果自殺という精神を守るために身体を殺してしまうという現象が起こる。

現代社会の複雑系は「命」という身体的精神よりも「意味」という意識的精神を優先的に処理している。これは生命の保全に必要な、秩序と安定のための結果だが、人間が身体的感覚を遮断していくと、「意味」が「命」よりも重くなる。

「生きている」を意味化すると精神と意識がおかしくなっていく。「あれ欲しい、これ欲しい、けどお金がないや」と、ただ在ることは一見「馬鹿」に見えるが、人がやれる事をやっているので「生きている」だけだ。また、やれる事の範囲をその人が広げていければ、より「幸せ」かもしれない。しかし、ここに意味など必要ない。「お金がないのは社会や自分の意味に問題があるのか?」と思考すると、すべてが意味化する。「生きている」ことの意味を考えだし「価値」と「お金」が「いのち」を蝕んでいく。本当に「お金と価値」という概念は恐ろしいと思う。

「価値とお金」とうまく付き合うには「私は『私の出来ること』をしているのか」に素直になればいいと思う。素直になるという事は意味化しないという事だ。出来ない事を考えても意味はないのだから。

ここでの注意は「出来ないこと」に対しての接し方だ。「出来ないけど楽しめてる」という状態になっているかどうかが胆なきがする。この「楽しむ」には「幸せ」が宿る余地があると思うからだ。しかし、「出来ない」を「価値とお金」にしてしまうと意味として精神と意識を蝕む。「経済」と「楽しむ」が合理なのが理想かも知れないが、現実的には「経済」は「意味」として精神と意識を蝕む。

「出来ない」に意味はないので、気楽に「出来る」を楽しみ、「出来ない」も楽しみとして意味から解放し、「幸せ」が宿れる場所を増やしていくのが「生きている」ことなのではないか。

(私などは、「出来ない」かも知れないけど、とりあえず考えて、「出来ない」を放置しておくことを楽しむようにしています。そのうちに「出来る」かもしれないので。)

では、「意味」とは何なのか、ということになる。このことを知るには養老先生が言っておられる「同じ」を考えると説明しやすい。人が集まった時に意味が同じでないと言葉が通じない。意味とは言葉や状態を「同じ」にしようとする意識から発生するのではないかと思う。「出来ない」と「出来る」を「同じ」にしようとすると無意味な意味が発生し、この循環を断つには精神的な活動が必要になる。この葛藤は多くの人を悩ます人生のようなもので逃れようがない。

ようするに「生きている」を「意味」にしすぎると疲れるので「同じ」にしたいと考えるのは、ほどほどにしましょう、という事になる。

この「同じ」の悪い例が「労働」という言葉に現れている。「労働」は「なされた仕事」をすべて「同じ」にする。現実には「なされた仕事」と「労働」の関係性は可変だ。人間は一人一人違うので当然といえる。しかし、人間は社会として支え合うので「なされた仕事」を「労働」として丸める。この丸めていることを無視し「同じ」にすると怪奇的な「労働運動」か発生する。2人の間で「なされた仕事」が倍違う場合でも「同じ」という無意味な意味によって、「労働」が「なされた仕事」を無意味にする。この無意味は人間の時間を消費し、さらに精神を消耗させているのでたちが悪い。社会主義国が消滅したのは自明といえる。

現代資本主義では「なされた仕事」は「お金」に直結しているので「生きている」人間は必ずしも「生存」出来ない。ここに社会的な政治と税の意義があると考えられる。この富の再分配は本質的には世界に対しても成立している。資本主義においては国際的な投資として行われるが、その結果の富をどのように分配するかは資本家にゆだねられている。日本ではTPPなど、経済協定の可能性について考えない人が多いが、その安全保障的な側面を考慮しないとしても、人間は日本に住んでいる人間だけではない、という事を知ることが、現在の日本人には必要だ。

 

9/10に更新、一部削除更新しました。