益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察

「風立ちぬ」考えと感想

 この文章では「風立ちぬ」を考えています。これを読むことで、あなたは二度と「風立ちぬ」を楽しむことが出来なくなるかもしれません。そのことを理解し己の責任において読んでください。映画は考えるものではありません。感じて、ふと、思い出すものです。「風立ちぬ」について自分なりに理解を深めたい。その参考に他人の意見を聞いてみたい。そんな人が読んで下さい。この文章を書く前に、「ハウルの動く城」を考察しているので、その影響下にある可能性があることも書き添えておきます。

 

masujiro-u.hatenablog.com

 

 

悠久の時、ふるさと、夢見た人達からの手紙

 

「奇麗」と「美しい」、「愛」と「大好き」。作家の「生きた言葉」

「奇麗」と「美しい」。このことを思った時、私は田舎の夜空を見た時のことを思い出した。その時、美しいとは思わなかった。奇麗だと思った。「愛」と「大好き」。このことを思った時、「愛」に理屈をこねる人はいるが「大好き(愛してる)」に理屈をこねる人は言い訳したいだけだ、という事を思った。

奇麗は「奇」めずらしいもの、普通でないもの、とりわけすぐれたもの、の意と「麗」うるわしい、うつくしい、うららか、きらびやか、あざやか、いさぎよい、りっぱである、かがやく、つらなる、ならぶ、つなぐ、対、ならび、などの意から表れている。

二郎の美しいは、様式美、理解可能なものとして描かれる。

本庄の設計した飛行機に対して、奇麗だという。それは、その飛行機に本庄自身が重なっているから、分析不要なものとしての奇麗だとおもう。カプローニのゼロに対する「美しい」はsplendidaの事だと思う。奥さんに言ったのはbella。bellaとsplendidaが両方とも「美しい」になっているのかな。

 言葉と心の距離を感覚で把握すると何となくわかる気がする。美しいは、自分の外のものに対する理解の試みを持った能動の言葉。きれいは自分の外のものに対する、心の内面の吐露としての言葉。そんな感じがする。

 

菜穂子、二郎との別れ

 黒川夫人は慌ただしく、炊事の差配をしている。この量は飛行試験の結果を受けて、後の事の為だと思う。今回は食事のシーンが少ない。なのにここではあえて大量の食事の準備をしている。成功すれば、宴会としてご近所に配り、失敗したら、おすそ分けとして配るのでは、と想像した。二郎が食べたサバ、黒田夫人の炊事、投じられた財も思う。

「美しいところだけ」

黒川夫人の言葉は女性的な、とても複雑な言葉。形式、様式、儀式というものは、その裏に非常に深い意味を持っている場合がほとんどだ。(この部分は時間の連続性が把握しきれず「感じ」です。菜穂子は汽車の中で倒れたのか、自宅で倒れたのか、病院へ向かったのか。残された力でどこへ向かったのか。私は、わがままを許してくれた両親のもとへ、家族のもとへ、(ここで二郎が臥せっている菜穂子にタバコを吸いたいというシーンが思い浮かぶ、数少ない家族的なシーンだ)最後まで迷惑をかける自分を呪って行ったのでは、と想う。)

 

 二郎が言葉を呑んだと思われるシーン

菜穂子との初めての出会い。二郎に吹く風に飛ばされる帽子を受け止め、無謀と知識と智慧で詩を口ずさむ。三等車両に戻る二郎、痺れている。このシーンの二郎の顔は案外目まぐるしく変化している。女として気づかせるのは避暑地であるが、人として気づかせたのは汽車である。二郎が菜穂子の花嫁としての姿に対面している時は、やはり痺れている。

 

ゼロにはパイロットが乗って描かれる。このゼロを見送りながら二郎はどんな言葉を思ったのか。言葉にならなかったことを想う。とても大切なシーン。

そして、パイロットの手信号に宣誓する二郎。敬礼で返すパイロット。この宣誓が二郎を現している。文民でも軍人でもなく、手を振るわけでもなく、頭を下げるわけでもない。身を正し宣誓する。

 

声を使った効果音

 夢としての実態と、影(呪い)としての音が飛行機として描かれている。地震はまだ、科学ではない。名古屋へ向かう旅路での鉄橋は戻れない道筋を現している。飛行機の音は、動力降下で機銃掃射される側の立場で音を聞いてみるといい。何度も現れる飛行機の音は、される人からはどの様に聞こえるのか。ただの機械音ではなく心の響きとしての音だと思う。パイロットにとっては、自分を預ける心臓。時間が進むにつれ、その音も変化していく。ゼロに音はない。

 

計算尺

風立ちぬ」の魔法

 

人間像

「加代、黒川夫人、菜穂子」、「仕事、家庭、愛」すべて肯定的に描かれている。男達に対しては手厳しい。二郎か本庄、あるいは黒川に妄想を載せて浸るしかない。しかし、生活を営んでいる男は、敬意を込めて描かれる。

 

庵野さんの声

作品との距離を保つために、庵野さんの存在感が必要だったのかな。

 

近代という熱風

日本は敗戦という形で一旦焼き尽くされたが、現代でも姿を変えて、その熱風は吹き続けていると思う。近代を、法の支配という理念の下での、論理的思考の社会への実践的応用と定義すれば、AIに社会を乗っ取られるまでが、近代となるのかも知れない。そして、その時が人間の世紀である保証はない。

 

風立ちぬ」と「ハウルの動く城」は対をなし、その中心にポニョがいる。

三つの映画を見ると人間と人、男と女、その業としての戦争が見えてくる。戦争を乗り越えられない人間の不条理が。自然と折り合いを付けられない、やるせなさが。それでも人間は人である。

「生きて」とは「人間」と成るか「人」と成るかの矛盾と葛藤。そして、現実世界を歩むこと、夢からの生還だと思う。だけれども、人はやはり夢を見る。

子供の時の二郎が下級生を助けたのは、その時の状況に真剣に向き合った結果だ。しかし、子供らにシベリアを渡そうとした時は、自分のものとして購入し、通り過ぎた後に渡している。二郎はこの事を思い。自身を反省したのだと思う。偽善と善意の境界は論理によって定義するのではなく、そのことの結果に対して恥じているかどうかという、心の問題として提起されるべきだと私は思う。相手に拒否されたら自分の思いやりの至らなさに恥じ入ればいい。宮崎監督は本来このような事柄を演出するのにたけている。この場合なら、シベリアを二組購入し、おもむろに近づき、ドングリをくれたトトロのように、弟に押し付け去ればいい。しかし、この時の二郎は飛行機に心を捕らわれ、思いやることに至らない。そして、思いやる余裕が無くなっている自分に対し偽善を感じたのではないか。眼前に、困難に直面している他者がいるなら、手を差し伸べるのは、人の自然な行いだと、私は思いたい。だが、大人になるという事は、その対象を取捨選択しなければならない、という事でもあると思う。人は葛藤と矛盾の中に生きている。

 

私はポニョでおなか一杯になり、いろいろあった事もあり、「風立ちぬ」を映画館で観ていません。なんだかちょっと後悔しています。ここまで読んで下さり、ありがとう御座いました。