益次郎の考察部屋

気になったアニメの妄想考察と思いのままに気のままに

「火垂るの墓」考察

「無垢な自由」そして「自由と意志」

 

清太はなぜ一人で生き抜くことを選択できなかったのか。節子の死は清太に何をもたらしたのか。あるいは何を奪ったのか。

 

親と死に別れた清太はまるで自由人で有るかのようにふるまい、社会を受け入れ順応することを拒否する。生きることに必要な「人間であること」と「自由と意志」。この葛藤の選択として清太は「自由と意志」を選んでいく。さらにいえば、その葛藤の痕跡もあまり描かれていない。唯一、母の死という現実との葛藤だけが描かれている。

節子は無垢に生きている。母親の死や親戚のおばさんの態度など「社会」を、ありのままの感覚によって表すことで「生きている子」として表現されている。

 

清太が「生きている」のは、その「自由と意志」の根拠たる節子の「無垢な自由」を守るためだ。節子が死ぬ事は「自由と意志」の死でもある。原始的で根源的な節子の「自由な姿」。この根源的な意識が失われたとき「自由と意志」はその根拠を失う。

戦争は「自由」と「人間社会」を極限まで対立させる装置として用いられる。戦争の状況下では「人間」によって「いのち」が奪われ行く。「自由と意志」を賢く用いなければ、生き抜くことが出来ない。そして戦争は「自由な姿」を殺す人間社会の現象だ。その状況装置として戦争が描かれる。清太は戦争という社会状況を全く理解していない。「生き抜くこと」ではなく「自由と意志」を貫くことを選択し、その結果もたらされた、節子の死を運命として受け入れ、自らの命を捧げる。

 

この映画は本当に怖い。節子は自然の摂理、つまり「食べる事が出来なくなる」という状況で亡くなる。そしてその状況を作ってしまったのは「社会」を拒否し続けた清太だ。ここに「人間の人間たる所以」が描かれている。自然と人間の違い。人間が生きるためには人間が必要であり、自然との相克の中に人間が存在している。エンディングで清太が見つめる発展した人間社会は、その相克の現在進行的な結果だ。そして、「無垢な自由」が眠りに就く時「自由と意志」はどこまでも膨張していく。

 

さらにこの映画が恐ろしいのは、プロローグとエピローグの清太だ。この清太は物語ではない。見据える者、超越者的な視点で描かれている。そして清太は観客をも見据え、「あなたは何を見たのか?」と問いかけてくる。